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阪神大震災の記憶

2011.03.21 (Mon)

このような機会ですので、阪神大震災のときの記憶を
書き留めておこうと思います。

阪神大震災のとき、わたしはOLでした。
わたしは毎朝目覚まし時計を合わせていますが、
大抵はアラームより早く目を覚まします。
あの日も、起床にはまだ間があったけれど、目を覚ましていました。
二回の自室で、畳の上に布団を敷いて寝ていましたが、
遠く地鳴りが聞こえた気がして、軽く緊張したところへ、
揺れが来ました。
文庫本や、小さな置物がパラパラと落ちてきたので、
万一強い揺れが来て本棚が倒れたらどうしよう、と思いましたが、
咄嗟に身体が動かず、少しでも衝撃を免れるために、
頭から布団をかぶったのを覚えています。
揺れは間もなく納まり、しばらく息を潜めていましたが、
どうやら大丈夫そうだと、下に下りると、
父が既にテレビを見ていました。
ブラウン管には、真っ赤に燃える神戸の映像が
早くも映し出されていました。
まだ薄暗い中、火の海になっている神戸の街の光景は、
特撮映画でも見ているかのようでした。
阪神、とひとくくりに言われますが、
我が家から神戸は電車で二時間はかかります。
どこかよそごとのように、眺めていました。

不眠症の母は、日頃は効かない精神安定剤が、たまたまその朝は効いていたらしく
あれだけの揺れも全く知らずにいました。
心配性で恐がりの母ですが、自分が揺れを知らずにいたために
いたって平気なもので、出勤のタイミングを迷っている私に
「早よ行きなさい、地震でダイヤ乱れてるかもしれんから
早めに出やなアカン、早く早く」とせかして、家を追い出しました。
出かけてみれば、近鉄バスも近鉄電車もフツウに動いていましたから、
なんだ、大阪は大したことないのか、と天王寺まで出て、
そこで足止めを食らいました。
地下鉄が動いていなかったのです。
地下鉄の改札前には、普段見たこともなかったシャッターが下りていて、
大量の群集がシャッター前でひしめきあっていました。
大阪人は災害に慣れていませんし、当然地下鉄の職員も、
初めての事態に右往左往するばかりで、
通勤客に正しい情報を提供するなどという対応は、
とてもじゃないけれども出来たものじゃありませんでした。
当時は、携帯を持っている人もほとんどいませんでしたから、
本当に情報源がなかったのです。
皆が皆、途方に暮れていましたが、
それでもまだ、「そのうち地下鉄が動き出すだろう」という楽観的な気分が
わたしたちの中にはありました。
やがて、どうやら長期戦になりそうだと気づいたときには、
既に公衆電話も長蛇の列、家にも会社にも連絡できず、
かといって、今更自宅にとって返すのも面倒そうで、
同じような沢山の人たちと、ただ立ち尽くしていました。
シャッターの前でひしめいている人の群れをどこか他人事のように眺め、
パニック映画のようだなと、こっそり笑いたくなってしまったりもしました。

とはいえ、いつまでもそこにそうもしておれず、電話の列に並んで
どうにか会社に連絡をとり、たまたま電話口に出た営業部の課長に
「皆さん来てらっしゃるんですか」と尋ねると、
「うん~・・・、ぼちぼち来始めてるよ」と、のん気に間延びした答え・・・、
やっぱり出勤しなきゃいけないんだ、と思いを新たにし、
埒の明かない地下鉄をあきらめて地上へ出、市バスかタクシーで
会社方面に近づく算段を始めました。
1月の寒い朝でしたから、すぐに足先も手もかじかんで、
身体中の筋肉がガチガチになってきました。
すぐそばの背の高いビルでは、メンテナンス用のゴトンドラがぶら下がって
作業員が作業していましたが、その間にもゆるい余震が幾度もあって
ゴンドラがユラユラ揺れていましたっけ。

今なら、携帯のMAPを見ながら、初めての道でも
下調べなしにそこそこ動くことができます。
GPSで、自分の現在地もある程度わかります。
交通機関のルートマップなども、検索できます。
けれども、当時はそんなものがありませんし、
わたしは筋金入りの方向音痴でしたから、
日頃、地下鉄でかよっているルート以外では、
どうやって会社にたどり着けばよいやら、
実は皆目検討がつかなかったのですが、
それでも目と耳と口を使って、なんとか頑張るつもりでした。
けれども、バスやタクシーにも一向に乗れる気配はないまま、
寒さに震える内に、お昼を過ぎてしまいました。

そんな中、どうやら堺筋線が動き出すらしいという情報が
人の口から口へ伝わり、堺筋線の最寄駅である動物園前へ
ゾロゾロと群集が大移動を始めました。
方向音痴のわたしは、当然、動物園前駅の位置などわかっていませんでしたが
皆目指す方向は同じであろうので、その大移動の群れの中に混じって、
歩みの遅さに少しイライラしながら、駅を目指しました。

苦労して会社にたどり着くと、なんのことはない、
大半の社員は休んでいました。
わたしよりずっと会社に近い人たちも、こぞって欠勤で、
まあ、朝の出勤時刻の段階で、自宅からの交通手段がストップしていた
というのがほとんどの理由のようでしたが、
なまじ、朝の時点で近鉄電車が動いていたばかりに、
半日かけて会社にたどりついた自分に、ちょっとタメイキ・・・・。
それはさておき、当時、わたしはシステム部に在籍していたのですが
まあ、えらいことになっていました。
大型冷蔵庫の1.5倍ほどもあるプリンターが、
ストッパーも無視して数十センチも移動しており、
キャビネットは大型裁断機の上にもたれかかって、
中身をそこらじゅうにぶちまけていました。
パソコンたちや、本部のコンピューターからの情報を受けるサーバーが
プリンターに押されてかなり移動しながらも無事だったのは、
勿怪の幸いというべきでしたが、ビルの窓ガラスはほとんど割れてしまっていました。
当時、自社ビルを新築中だったわが社は、それが出来上がるまで
近くの古い貸しビルに入っていました。
古いビルというのは、窓ガラスがパテでしっかりと枠に固定されていて、
振動によるダメージを逃がすことができない造りらしく、
近所の新しいビルが無傷な中で、うちの会社だけが
みっともないほどに、窓ガラス70枚ばかり被害を受けました。
そんな有様ですから、当然その日は仕事にはなりませんでしたが、
放置して帰るわけにもいきませんので、
出勤した者だけである程度の片づけをしました。
わたしの部は、わたしと年配の女性ふたりだけの部屋でしたが、
その女性が出勤していませんでしたので、一人で黙々と作業しました。

翌日からは通常どおり、とはいかないまでも、
普通に業務が始まりましたが、
なにせ、あの規模の地震でしたから、窓ガラスの修理が
当分うちの会社にまで回ってきません。
とにかく寒い季節でしたから、開けっぱなしておくわけにもいかず、
ダンボールでふさいで過ごしましたが、隙間風で寒いのなんの。
しかも、震災当日は業務が休みだったので、
その振り替えとして日曜日に皆出勤するように、ということになって、
地震当日に必死で出勤した人間もそれは免れず・・・・
そういう場合に得だ損だと言いたくはないものの、
今より若かったせいもあり、少々理不尽さを感じたものです。

やがて、窓ガラスも直り、なんら業務にさしつかえることはなくなりましたが、
それでも一ヶ月やそこらは余震が度々あったように思います。
わたしの会社がその時借りていたビルの隣が、
実はオウム真理教のサティアン大阪で、
このビルは壁と屋上がわが社と共有されていたので、
当然、うちの会社と同じくらい窓ガラスが割れたのですが、
修理する気がないらしく、いつまでたっても割れたまま。
なので、少し余震があると、パラパラと破片が落ちてくる。
歩いていてそれに直撃される、というようなことはありませんでしたが、
そういう危険性もなくはなく、なかなか落ち着かない気分が抜けませんでした。

その年、経理の女性陣に混ぜてもらって、
夕日が浦へカニ旅行に行くことになっていましたが、
さすがに日延べをして、カニを食べられるギリギリの3月に出かけました。
大阪に暮らすわたしたちは、既に震災のいやな記憶は払拭していて、
夕日が浦へ向かう列車の中は、一様に行楽ムードでした。
が、途中、ブルーシートをかぶった家々が線路沿いに見え始めると、
それまで賑やかだった車内が、一瞬しんと静まり返りました。
まだ家を修繕することも出来ず、寒い思いをしている人たちが沢山いるときに
笑いさざめきながら行楽に出かける、その後ろめたさに、
誰もが無口になりました。
夕日が浦では、かに尽くしで非常に満足でしたが、
そのシーズン予定されていたお客も、随分キャンセルが入ったようで
その分、大盤振る舞いだったのではないかと思います。
帰りにカニを一ぱいずつ土産に持たせてくれるサービスもありがたかったです。
カニ旅行なんて後ろめたい、と思ったけれど、
みんながそう思ってキャンセルをすると、
カニを食べに来るお客をあてこんで暮らしている地域は、
それこそ大打撃・・・・。
そういう意味では、行ってよかったと思いました。

あの日の朝、真っ赤に燃えていた神戸の街は、
目覚ましい速さで復興をとげました。
今回、東北も一日も早い復興が出来るようにと思います。
でも、神戸の街は、街としての機能は驚くほど早く取り戻したけれども、
そこに暮らしていた人たちの暮らしが、
それと同じくらい早く元に戻ったわけでは決してないと思うのです。
命が助かっても、それまでに築き上げてきたもの全てを失ってしまったら、
立ち直るのはとても難しい。
心や体にダメージを負ったなら尚更。
神戸には仮設住宅が沢山あったけれど、
みんながそこで支えあって励ましあって暮らしていた頃はともかく、
一人去り、二人去り、していく中で、生活の目処が立たずに
最後の最後まで取り残されていった人たちの胸中はどうだったろうかと思います。
阪神の頃にくらべて、そうでなくても就職難の叫ばれる現在、
今回被災されたかたたちの生活の建て直しが、とても心配です。
東北にはもともとお年寄りが多かったであろうことも、気がかりなところです。
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20:01  |  つれづれ  |  Trackback(0)  |  Comment(2)

Comment

そうだよね

めめさんは阪神大震災を体験なさってるんですよね。

もう…
なんといっていいかわからないけど
ちゃんと復興できるよね。

harry |  2011.03.22(火) 20:32 | URL |  【編集】

≫harryさん
いえもう、体験なんて言えるほどのものではないんです。
今回の東京や埼玉あたりにくらべても
ずっと軽いものでした。
だから、被災地の痛みをいまひとつ自分のものとして感じることが出来なかったんです。
今回はテレビやネットでリアルタイムでNEWSを追って、、、
それでなんだか自分までがヒステリックな状態になってしまいましたが、、、
でも、今は落ち着いて自分の目の前のことをいつも通りにこなそうと思っていますよ。
いつも通りであれることが、とても幸せなことなんだから。
**めめ** |  2011.03.23(水) 00:34 | URL |  【編集】

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